海防論

海防論（かいぼうろん）

海防論は、江戸時代後期に諸外国の日本への接近、特に外国船の来航が頻繁になったことを背景に生じた、国防に関する様々な議論の総称です。太平の世が長く続いた江戸幕府にとって、沿岸防衛は喫緊の課題として浮上しました。

議論の発端

この国防論議が本格化し始めたのは18世紀後半です。ロシアの使節パベル・レベデフ＝ラストチキンが北海道厚岸に来航し、松前藩に交易を求めたことが大きな契機となりました。北方からのロシアの接近に対し、日本の玄関口の一つである蝦夷地をどのように扱うかという問題意識から海防論の議論が始まりました。

主な主張とその展開

海防論には、大きく分けて二つの潮流がありました。

積極論

これは、ロシアの南下を防ぐためには蝦夷地を日本の領土として積極的に開発・経営すべきであると主張する立場です。工藤兵助は『赤蝦夷風説考』で蝦夷地の重要性を説き、林子平は『海国兵談』で具体的な海防策（海軍の創設や沿岸砲台の設置など）を提示しました。彼の提言は、その後の日本の国防策に大きな影響を与えました。本多利明や佐藤信淵も同様の立場から蝦夷地経営を主張しました。また、蒲生君平は外国に対する徹底抗戦を主張し、水戸藩の一部からは過激な攘夷論が唱えられました。

消極論

一方、消極論は、中井竹山や中井履軒らが唱えました。彼らは、蝦夷地は日本の辺境にある未開の地であり、そのような土地を開発・経営することは国力を無駄に消耗するだけだと考えました。老中田沼意次が進めた蝦夷地開発計画を中止させた松平定信も、当初はこの消極的な考えを持っていました。

幕末期の海防論の変容

19世紀に入ると、ロシアだけでなく他の諸外国船の来航も増加します。特にラクスマンやレザノフの来航、そして1808年のフェートン号事件といった出来事は、江戸幕府全体の危機感を高め、幕府は積極論へと傾いていきました。1802年には蝦夷奉行が設置され、後に箱館奉行や松前奉行へと改組されながら、蝦夷地への関与を深めていきました。

この頃になると、海防問題はもはや蝦夷地だけの問題ではなく、国全体で取り組むべき課題として世論も高まりました。古賀侗庵は1837年のモリソン号事件を受けて『海防臆測』を著しましたが、この中で異国船打払令の危険性を指摘し、国防強化の必要性を説きつつも、開国の必然性にも言及しています。渡辺崴山も、海防論を装いつつ開国の必要性を論じた『慎機論』を著しましたが、これは蛮社の獄として知られる弾圧事件につながりました。

これらの初期の海防論は、しばしば観念的な議論に留まりがちでした。しかし、ペリーやハリスの来航によって外国との関係が不平等条約の締結という具体的な政治問題に発展すると、蝦夷地経営から始まった単純な海防論は、その性質を変えざるを得なくなります。海防問題は、将軍の継嗣問題といった国内の政争とも複雑に絡み合い、幕末の動乱期へと続いていきました。

海防論の影響

海防論は、幕府や各藩の政策、さらには庶民にまで影響を与えました。

例えば、盛岡藩はラクスマン来航後、幕府の命令で蝦夷地の警護を担当しましたが、その財政負担の増加に加え凶作が重なり、1847年から1853年にかけて三閉伊一揆が発生する原因の一つとなりました。

ペリーの黒船来航時には、幕府が有効な対応策を即座に立てられず、庶民からも様々な意見が提出されました。遊女屋の藤吉という人物が、多数の漁船を徴用して黒船に接近し、親睦を装って油断させた上で火薬庫に火を放ち、乗組員を切りつけるという大胆な作戦を提案した例などがあり、命を賭して国を守ろうとする気概が広く存在したことがうかがえます。

また、各藩レベルでも海防強化の取り組みが進められました。浜松藩では、藩主水野忠邦が長沼流兵学を取り入れ、その後の井上氏の時代には沿岸に砲台を築造しました。さらに、正規の藩兵だけでは不十分として、領内の村々から農民を徴用した「農兵隊」が組織されました。この農兵隊には、弓術に長けた神社の神職（神官弓隊）も参加することとなっており、彼らは国学の影響もあり海防への関心が高かったとされます。浜松藩では安政4年（1857年）から農兵隊に対する鉄砲の訓練も開始されました。

海防論は、単なる軍事的な議論に留まらず、北方問題、経済、思想、そして幕末の政治変動に至るまで、広範な領域に影響を及ぼした江戸時代後期を特徴づける重要な論点でした。

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