李林甫

李林甫（り りんぽ）

李林甫は、唐の玄宗皇帝時代に宰相として権勢を誇った政治家です。唐朝の宗室出身であり、その出自を背景に、巧みな策略と権謀術数で政敵を排除し、長きにわたり権力を掌握しました。しかし、その強引な手法は多くの恨みを買い、唐王朝の衰退を招いた人物としても知られています。

生涯

宰相への道

李林甫は、隴西郡の出身で、幼名は哥奴と言いました。音楽や絵画の才能に恵まれていましたが、若い頃は学問をあまりせず、狩猟や蹴鞠に明け暮れていたと伝えられています。しかし、ある時、父の従兄弟に才能を見出され、官界に入るきっかけを得ます。

開元14年（726年）には、御史中丞として、科挙出身者たちのリーダーであった張説を弾劾する一派に加わります。その後、刑部侍郎、吏部侍郎を歴任し、着実に頭角を現していきます。李林甫は、表面は柔和ですが、その内面は狡猾で計算高く、宦官や后妃を利用して玄宗の意向を探り、それを巧みに利用して信頼を得ていきました。さらに、玄宗の寵愛を受けていた武恵妃と結び、その子の李瑁を後継ぎにしようと画策したことが、黄門侍郎への抜擢につながったとされています。

開元22年（734年）には、礼部尚書に昇進し、ついに宰相の地位にまで上り詰めます。この時、張説の後を継いで科挙派のリーダーとなっていた張九齢が反対しましたが、李林甫は張九齢にへりくだった態度で接し、その警戒を解いたと伝えられています。

宰相間の権力闘争

その後、戸部尚書、兵部尚書を歴任し、着実に権力を拡大していきます。開元24年（736年）には、張九齢や裴耀卿の反対を押し切り、玄宗に長安への帰還を勧めます。また、玄宗が朔方節度使の牛仙客を尚書に任じようとした際には、張九齢が猛反対しますが、李林甫は「才能があれば学問は必要ない」と玄宗に進言し、牛仙客の任命を後押ししました。このように、李林甫は常に玄宗の意向を敏感に察知し、それを巧みに利用して権力を掌握していきました。

この頃、太子李瑛らが母である武恵妃が玄宗の寵愛を奪ったことを恨んでいることが発覚します。玄宗は李瑛の廃立を検討しますが、張九齢はこれに猛反対します。李林甫は、この件に関して何も言わず、その後、宦官に「これは天子の家事であり、他者が口出しすべきではない」と伝えました。さらに、張九齢と親しかった厳挺之の離縁した妻の夫の贈賄事件を利用して、張九齢と裴耀卿の実権を奪うことに成功します。張九齢は失脚、厳挺之は左遷、王元琰は流刑となりました。

李林甫は、中書令を兼任し、牛仙客も宰相となりました。この頃から、朝廷の官僚たちは保身に走り、李林甫に逆らう者がいなくなったと言われています。李林甫は諫官たちを集め、「余計なことを言うな。主君のそばにいる馬は、一声鳴けば追い出される。後悔しても手遅れだ」と圧力をかけたとされています。開元25年（737年）には、監察御史の周子諒が牛仙客を宰相の器ではないと批判したため、玄宗が周子諒を殺害する事件が起こります。李林甫は、周子諒が張九齢の推薦した人物であることを理由に、周子諒を左遷しました。

玄宗は李林甫が何も言わないことを確認した上で、太子李瑛らを庶民とし、さらに自殺を命じました。李林甫は、この功績により晋国公に任じられました。この年、律令の改定を行い、「唐律」とその注釈書である「疏議」を完成させます。また、租庸・防丁・和糴などの報告に必要な書類を大幅に削減し、行政効率の向上にも貢献しました。

国政壟断と大獄

開元26年（738年）には、河西節度使を兼任しますが、前年に武恵妃が亡くなったため、玄宗の心は揺れ動いていました。李林甫は李瑁を太子にすることを勧めますが、高力士が李璵を太子にすることを勧めたため、李璵が太子となります。同年、官制に関する官選書「大唐六典」が完成し、注の編集者となります。

開元27年（739年）には、吏部尚書を兼ね、文武官僚の人事権を掌握します。李林甫の人事は、年功序列を重んじるものでしたが、ずる賢く立ち回れる者には特別な昇進が与えられたと言われています。また、牛仙客と協力して近隣の税を上げ、物資を関中に集めた結果、数年で食糧が豊かになり、玄宗の洛陽巡幸を減らすことに成功しました。

天宝元年（742年）には右相となり、その後、玄宗が気に入った人物を遠ざけることに腐心し、盧絢、厳挺之、斉澣を洛陽に追いやり、裴寛を左遷させました。

天宝三載（744年）、玄宗は高力士に「長安を出ずに十年近く、何もなかった。李林甫に政治の全てを任せようと思うが」と相談し、高力士が反対したほど、李林甫への信頼は厚かったと言われています。

天宝四載（745年）には、刑部尚書の裴敦復を左遷させ、楊貴妃のいとこである楊釗（後の楊国忠）や王鉷、吉温、羅希奭らを腹心として使い始めます。天宝五載（746年）には、陳希烈を宰相に据え、李林甫が自邸で国事を決めるようになりました。

同年から翌年にかけて、李林甫の謀略により、皇太子李璵の周辺人物や、李林甫が嫌っていた人物たちが次々と陥れられました。杜有隣らは処刑され、韋堅、皇甫惟明、李邕、裴敦復らは左遷させられた上で殺害され、李適之、王琚は自殺に追い込まれました。裴寛、李斉物、王忠嗣らも左遷させられています。李林甫のために働いた楊慎矜も、玄宗の意向に沿うようになってきたため、冤罪で自殺に追い込まれました。その後も、李林甫は皇太子の失脚を画策し、楊釗らに皇太子に関係する人物を弾劾させ、罪を被せられた家は数百家にものぼりました。

天下の貢ぎ物は全て李林甫に与えられ、玄宗が朝廷に出ない日は、官僚は全て李林甫の自宅に集まり、役所には陳希烈が一人でいる状態でした。また、玄宗が人材を求めて、一芸に秀でた人物を集めようとした際にも、李林甫は在野の士が反対勢力になることを恐れ、試験を厳しくするように進言したため、合格者は一人も出ませんでした。李林甫は、在野に人材がいないことを祝ったと伝えられています。

果てなき権勢の落日

李林甫は、節度使が中央で宰相になることを防ぐため、府兵制の破綻という背景もあり、節度使に異民族出身者（蕃将）を抜擢することを提案しました。「文臣は将となれば臆病で役に立たない。寒門や胡人を用いれば良い。胡人は勇敢で戦いに慣れており、寒門の者は孤立していて派閥がない。恩を与えれば、命を捨てて朝廷のために働くでしょう」と進言し、玄宗はこれを受け入れ、安禄山、安思順、哥舒翰、高仙芝などの蕃将を節度使に任命しました。この政策が、後の安史の乱の遠因になったと言われています。

天宝八載（749年）には、咸寧太守の趙奉璋が李林甫の罪を告発しましたが、李林甫は告発が届く前に御史に命じて趙奉璋を殺害しました。また、府兵制の崩壊により、折衝府の軍隊が形骸化していたため、その魚書を廃止しました。これにより、折衝府は兵士がいない状態となり、役人だけが残ったとされています。

天宝九載（750年）になると、吉温が権勢を強めていた楊釗に取り入り、李林甫にとって代わることを画策し始めます。腹心であった刑部尚書蕭炅、御史大夫宋渾は左遷させられ、李林甫も彼らを救うことができませんでした。しかし、この年は瑞祥が続いたため、朝臣の邸宅を道観にして玄宗の長寿を祈ることを提案し、玄宗を喜ばせました。

天宝十載（751年）には朔方節度使を兼任しますが、翌年の天宝十一載（752年）には、朝廷が悪銭対策として回収を試みましたが、商人の反対と楊国忠の介入により失敗に終わります。さらに、朔方副節度使に任命した阿布思が安禄山と対立し、反乱を起こします。また、腹心の王鉷が弟の反乱事件に巻き込まれたため、李林甫は王鉷を救おうとしましたが、楊国忠と陳希烈の意見が通り、王鉷は死刑を宣告されました。この成り行きを恐れた李林甫は、自ら朔方節度使を辞退しました。

楊国忠は、李林甫が王鉷と阿布思の反乱に関与していると誣告し、陳希烈と哥舒翰も同様の証言をしたため、玄宗は李林甫を疎んじるようになりました。李林甫は、楊国忠が剣南節度使を兼任しているにもかかわらず、南詔討伐に失敗していたことから、楊国忠を任地に赴かせようとしましたが、李林甫の病状が悪化し、玄宗に謁見することすらできなくなっていました。楊国忠が途中で呼び返され、李林甫と会見した際、李林甫は涙を流し、楊国忠に後事を託して亡くなりました。太尉、揚州大都督の位を追贈されましたが、死後、楊国忠によって、安禄山と共謀していたと誣告され、官職を剥奪され、庶民に落とされました。子供たちも配流となり、財産は没収されました。棺桶は庶民のものに取り替えられ、李林甫の党とみなされた者たちも左遷させられました。

李林甫は「真綿で針を包むようだ」と評され、奸臣の代表として歴史に名を残しました。

エピソード

若い頃、司門郎中の官位を求めた際、当時の侍中であった源乾曜に「郎官は才能と人望のある者に与えられるべき」と拒否され、国子司業に就任したという逸話が残っています。
表面は柔和でしたが、裏では人を疑い、中傷していました。玄宗の信頼を得ていたものでも、李林甫の門下でない者は、最初は親密にしておき、地位が自分に迫り始めると陰謀によって失脚させました。そのため、「口に蜜あり、腹に剣あり」と言われました。
有能な地方官が中央政府に登用されそうになると、病気休暇を取らせて準備するように勧め、その人物が休暇に入ると、その人物は病気がちで中央の激務に耐えられないと玄宗に進言し、任官を妨害しました。
父の権勢を恐れた息子の李岫は、李林甫と散歩中に人夫を指さして「長く権勢を握り、恨みは天下に満ちています。一旦災いが起これば、この人たちのようになるだろう」と警告したそうです。それに対し、李林甫は「ここまで勢力が大きくなると、もうどうすることもできない」と答えたと言われています。
刺客に襲われることを恐れ、外出時には百人以上の護衛を連れて歩き、自宅内では何重にも門を設け、床を石畳にするなどの対策を講じていました。また、夜には寝床を頻繁に変え、家族でさえも寝床を知るものはいなかったと言われています。
宰相が従者を多く引き連れる習慣は、李林甫が始めたとされています。
安禄山は李林甫に対し、最初は少し礼を欠いていましたが、同僚の王鉷が李林甫に恭順な態度をとるのを見て、自分も同様の態度をとるようになりました。安禄山は李林甫を非常に恐れ、会う度に汗をかいたと言われています。范陽に帰った後も、李林甫の動向を常に気にかけていたそうです。
学問はさほどではなく、字の読み間違いや書き間違いの話が伝えられています。
息子は25人、娘は25人いたと伝えられています。
作者不明の伝記『李林甫外伝』には、李林甫が道士に見いだされ、仙人になることを勧められたが、20年の宰相の地位を選んだという話が伝えられています。李林甫は、600年後に仙人になる約束をされており、仙人が人間界に一時的に降り立った姿だとされています。そのため、安禄山は李林甫を恐れたとされています。
長安にある菩提寺の僧を誕生日に自宅に招き、斎会を開いていました。その際、多額の布施を行っており、その鞍は7万銭、釘のような装飾品は1千万銭もしたと伝えられています。
開元年間末には、兄の李林宗を通じて、日本僧の栄叡・普照の渡航を支援しました。これは、鑑真の来日につながる大きな出来事でした。
絵画に優れ、伯父の李思訓、父の李思誨、従兄の李昭道、甥の李湊とともに、『歴代名画記』に名を残しています。同書の中で、著者の張彦遠に「甚だ佳し」と評されています。また、詩人の高適もその絵を絶賛した詩を贈っています。

伝記資料

『旧唐書』巻百六 列伝第五十六「李林甫伝」
『新唐書』巻二百二十三上 列伝第百四十八 「姦臣上・李林甫伝」
『資治通鑑』
無名氏『李林甫外伝』
段成式『酉陽雑俎』

参考文献

布目潮渢・栗原益男『隋唐帝国』（講談社〈講談社学術文庫〉、1997年）
張彦遠『歴代名画記』（平凡社〈東洋文庫〉、長廣敏雄訳、1977年）

外部リンク

* 『李林甫』 - コトバンク

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