禅林墨跡

禅林墨跡：禅僧の書跡と日本の書道史

はじめに

禅林墨跡（ぜんりんぼくせき）とは、禅林の高僧たちが残した書跡のことです。印可状、字号、法語、偈頌、遺偈、尺牘など、禅宗に関連する様々な文書が含まれています。「墨跡」と略されることも多く、「墨蹟」「墨迹」とも表記されます。
中国では「墨跡」は書跡全般を指す言葉ですが、日本では禅僧の書跡を指す言葉として限定的に用いられるのが一般的です。このため、近年では禅僧の書跡を特に「禅林墨跡」と呼び、その書風を「禅宗様」と称するようになりました。本稿では、「墨跡」を「禅林墨跡」を指すものとして記述します。

禅林墨跡の伝来と隆盛

禅林墨跡は、鎌倉時代に中国から伝来しました。それ以前の日本の書道は、中国との交流が途絶えていたため、独自の和様（わよう）が主流でした。しかし、鎌倉時代以降、禅僧の往来が盛んになり、宋・元時代の禅宗書法が日本に伝えられました。
禅僧の書は、精神性を重んじる自由で人間味あふれる作風が特徴で、武士階級の好みに合い、大きな影響を与えました。こうして、墨跡という新たな書道の分野が誕生し、日本の書道史において重要な位置を占めるようになりました。
室町時代には茶道が流行し、墨跡は茶席に飾られる掛軸として重宝されるようになりました。特に江戸時代には大徳寺の禅僧の間で流行し、多くの墨跡が作られ、今日ではそれが主流となっています。

墨跡の二義の由来

「墨跡」という言葉は、中国の六朝時代にまで遡りますが、広く普及したのは宋代になってからです。宋代の禅僧の詩文集には、単に書跡を意味する言葉として「墨跡」が使われていました。鎌倉時代の日本へ禅が伝来した際、禅僧たちは中国から持ち帰った書跡を「墨跡」と呼び、やがてそれが禅僧の書跡を指す言葉として定着していったと考えられています。
日本で禅僧の書跡を指す言葉として「墨跡」が用いられた最古の例は、貞治2年（1363年）の『仏日庵公物目録』です。この目録には、「墨蹟」という項目が設けられ、中国の禅僧の書が記載されています。他宗の僧侶の筆跡に対して「墨跡」という言葉が使われた例はほとんどありません。

墨跡の書風

禅林墨跡は、印可状や法語など、本来は宗教的な目的で書かれたものです。そのため、書そのものの技巧よりも、書いた人物や内容が重視され、書法にとらわれず、個人の人間性を自由に表現したものが多いです。
書風は多様ですが、概ね北宋の蘇軾・黄庭堅、南宋の張即之、元の趙孟頫といった中国の著名な書家の影響を受けているものが多いです。

墨跡の範囲

禅林墨跡は、宋・元時代の中国の禅僧の書、鎌倉時代から室町時代前期の日本の禅僧の書、江戸時代の大徳寺や妙心寺の禅僧の書などを含みます。黄檗宗の書も含まれる場合がありますが、中心は臨済宗です。例外的に、居士である張即之や馮子振の書も墨跡として扱われる場合があります。
墨跡は中国風の書風ですが、一般的に「唐様」とは呼ばれません。「唐様」は、江戸時代に儒学者や漢学者の間で流行した、明代の書家に影響を受けた書風を指す言葉として用いられることが多いためです。

墨跡の内容

禅林墨跡の内容は多様で、難解なものも多いです。主な内容は以下の通りです。

印可状: 師僧が弟子に悟りを認める証明書。
額字: 禅院に掲げる額の文字（寺名、室名など）。
字号: 師僧が弟子に与える道号。
法語: 師僧が弟子に悟道の要諦を書き与えたもの。
偈頌: 仏教の教えを漢詩で詠んだもの。
遺偈: 臨終の際に弟子に遺す偈頌。
尺牘: 漢文で書かれた書簡。
疏・榜・像賛: 禅院における公式文書や賛辞。

代表的な禅林墨跡とその作者

ここでは、代表的な禅林墨跡と、その作者について簡単に紹介します。詳細な解説は、専門書を参照ください。

圜悟克勤: 『与虎丘紹隆印可状』（国宝）
大慧宗杲: 『与無相居士尺牘』（国宝）
楚石梵琦: 『心華室銘』（重文）
密庵咸傑: 『密庵咸傑法語』（国宝）
古林清茂: 『月林道号』『与別源円旨送別偈』（いずれも国宝）
了庵清欲: 『了庵清欲進道語』（国宝）
月江正印: 『与鉄舟徳済餞別語』（重文）
虚堂智愚: 『虚堂智愚法語』（国宝）
宗峰妙超: 『関山字号』『渓林偈・南嶽偈』『与関山慧玄印可状』『看読真詮榜』（いずれも国宝）
徹翁義亨: 『言外字号』『虎林字号』（いずれも重文）
一休宗純: 多くの作品が重要文化財に指定
蘭渓道隆: 『法語・規則』（国宝）
無学祖元: 『与長楽寺一翁偈語』（国宝）
中峰明本: 『与済侍者法語』『幻住庵勧縁疏』（いずれも重文）
清拙正澄: 『清拙正澄遺偈』（国宝）
馮子振: 『与無隠元晦詩』（国宝）

まとめ

禅林墨跡は、禅宗の精神性を反映した独特の書風と、禅宗特有の文書内容を持つ書跡です。鎌倉時代以降、日本の書道や文化に大きな影響を与え、現在でも高い芸術的価値と歴史的価値を持つ貴重な文化財として大切に保存されています。

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