棄捐令

棄捐令（きえんれい）とは

棄捐令とは、江戸時代に幕府が、財政難に陥った旗本や御家人を救済するために発令した武士救済法令です。具体的には、彼らの債権者である札差に対し、債権放棄や債務繰り延べを強制するものでした。同様の措置は、松江藩、加賀藩、佐賀藩などの諸藩でも行われています。

棄捐令が発令された背景

旗本や御家人は、石高が低いうえに相給などの制度によって財政基盤が脆弱でした。幕府成立からわずか30年後の3代将軍徳川家光の時代には、すでに彼らの困窮が問題視されていました。幕府は、地方への異動や倹約令の徹底で対応しようとしましたが、江戸居住が義務付けられていた旗本・御家人は消費活動をせざるを得ず、問題は深刻化する一方でした。

その結果、彼らは借金を重ねて生活を維持するようになり、特に札差からの借財は年々膨らんでいきました。札差は、武士の扶持米（給与として支給される米）の扱いを握っていたため、借金の取り立てが確実に行えました。当時の利率は公定年利18%と高額だったため、一度借金生活に陥ると返済地獄に陥る者が多く、江戸の人口の4割から5割を占めたとされる武士の借金問題は、江戸の経済全体を萎縮させる要因となりました。

寛政の棄捐令

寛政元年（1789年）、老中松平定信が寛政の改革の一環として最初に発令したのが寛政の棄捐令です。この法令では、天明4年（1784年）以前の借金は債務免除とし、それ以降の借金については、利率を年利18%から3分の1の6%に引き下げ、長期年賦での返済を義務付けました。また、今後の法定利率を年利12%にすると定めました。

この時の債務免除総額は、札差88人から報告された額の合計で、金118万7808両3歩と銀14匁6分5厘4毛に達し、1軒平均1万3500両ほどとなり、これは幕府の年間支出とほぼ同額だったと言われています。ただし、当時の札差96人のうち8人が何らかの理由で報告に応じていないため、正確な債務免除総額は不明です。

棄捐令の法案作成

この法令の作成には、勘定奉行の久世広民、久保田政邦、柳生久通、曲淵景漸、江戸南町奉行の山村良旺、北町奉行の初鹿野信興などの幕閣に加え、町年寄の樽屋与左衛門も参加しました。彼らは、勘定所御用達からの出資金を背景に、寛政元年（1789年）正月頃から約半年かけて法案を作成しました。

法令発布前に幕府が札差の経営状態を調査したところ、札差97軒のうち自己資金で経営しているのはわずか7軒で、全体の7割強が外部から資金を調達していることが判明しました。このまま債務免除を強行すると、札差が経営困難に陥り、旗本への再融資を拒否してしまう恐れがありました。そのため、幕府は札差の経営を支援するため、公金5万両の貸し付けや、札差向けの資金貸付機関である猿屋町会所の設立を決定しました。

猿屋町会所は、江戸、京都、大坂の有力商人から資金を募り、経営状態の良い札差に運営させ、経営困難な札差に低利で融資するという仕組みでした。久世広民は、この仕組みによって札差は外部からの資金調達に頼らずに営業を続けられ、富が社会に流通することで経済が活性化すると考えました。

町年寄の樽屋与左衛門は、旧債の処分について、天明4年以前と天明5年以降に分け、前者を相対済し（事実上の放棄）、後者を年利6%に引き下げることを提案しました。これは、当時の公定利子が18%だったため、6年目には利子が元本を超えることから、それ以前の債権は既に元本を回収済みとみなせるという考えに基づいています。

また、札差仕法改革が旗本金融のみを対象とし、他の一般金融には適用しないことを徹底させ、市中の混乱を抑えること、貸金年利率を12%に引き下げることなど、与左衛門の提案の多くが採用されました。最終的な発布内容は以下の通りです。

天明4年以前の札差からの借金は、理由を問わず債務免除とする。
天明5年4月から寛政元年までの借金は、元金、利子ともに年利6%に引き下げ、年賦返済とする。
寛政元年以降の利子は、年利12%に引き下げる。
零細な札差を支援するため、幕府出資で貸付会所を新設する。
札差が金主から借りていた金については、札差の債務不履行を認め、金主が訴えても5年以上前のものは受理しない。
旗本・御家人への貸付は従来通り行う。

さらに、棄捐令の実施時期は、9月の冬服の衣替えが終わった後が最も影響が少ないとして、9月10日ごろに発布することになりました。実際には、最後の申渡書の加筆修正のため、発布は少し遅れました。

棄捐令の発布

寛政元年9月16日、札差一同と蔵前の町役人が北町奉行所に召喚され、勘定奉行の久世広民の立ち会いのもと、山村信濃守と初鹿野河内守から法令が伝えられました。

法令では、札差が旗本・御家人の借金問題を放置し、高利で利益を上げていること、贅沢を尽くし風俗を乱していること、武家に対して無礼な態度をとっていることを厳しく非難しました。そして、利子を引き下げ、これまでの貸金の扱いを改め、会所を建てて町年寄の樽屋与左衛門に運営を委託し、幕府から無利息の貸付金を出すことを伝えました。

その後、樽屋与左衛門の役宅で、札差一同に改めて法令の説明が行われ、新規融資における利子の計算方法や、会所に関する詳細な説明がなされました。

その他、旗本・御家人の知行高に見合わない高額な借金の申し込みは拒否すべきであること、蔵米支給時の酒食の接待は一切不要であること、蔵米の受け取り、運搬、売却による手数料は従来通りであることなどが伝えられました。また、札差には、顧客である武士の身分、知行高、姓名を全て書き出して提出するように命じられましたが、これは武士の名誉に関わるとして撤回されました。

さらに、借りたのが天明4年以前でも、証文の書き換えによって5年以内（天明5年以降）となっている借金や、家督相続によって親の借金を書き換えた場合も債務免除となりました。

棄捐令の発布後

棄捐令発布から7日後の9月23日、札差28名から嘆願書が提出されました。嘆願書には、自分たちは零細な経営であり、外部からの資金調達で営業を続けてきたため、今回の債務免除と低利化では経営が成り立たず、これ以上貸付はできないという内容が書かれていました。

幕府は直ちに対応し、翌日、札差の代表に2万両を貸し付けました。うち1万両は10年間返済不要とし、残りの1万両は会所の貸付資金に充てるよう命じました。幕府が札差に融資することは、当初から計画されていたことです。これを受けて、札差は嘆願書を撤回しました。

しかし、結局、札差の貸し渋りが始まりました。棄捐令が発布された当初、借金をしていた旗本・御家人や、徳川御三家・御三卿付きの武士は大いに喜びましたが、新たな借金ができなくなったことで再び生活に困り始めました。年末が近づき出費が増えるにつれて、不満も高まり、中には追剥や盗人になる下級の御家人まで現れました。

旗本・御家人に対する追加貸付は行われなくなり、人々の不安を招くなど、多くの弊害が出ました。札差の一斉貸し渋りは組織的に行われ、閉店同然の店もありました。松平定信は久世広民に宛てて、「今年は暮れの借金が例年の半分にも満たず、貧乏な者は年を越せない。札差の資金が足りなければ会所から借りさせよ」と指示し、年内の解決を急かしました。

奉行と札差との交渉の結果、当初年利12%のうちの2%だった札差の取り分を6%に増やすことで合意しました。これにより、札差は公儀から資金を仲介するだけで利息の半分を得られることになり、大きな利益を得ることができました。年末ぎりぎりの12月26日に妥結したことで、当初の予定より3ヶ月遅れましたが、会所の資金が札差経由で武家に渡るようになり、大規模な貸し渋りは回避されました。

その後も、札差への経済支援は続き、翌年7月には「四分通御下げ金」という、武家に貸した額の4割を会所から低利で貸し出す措置が決定されました。この時、会所の基金は前年10月に元手3万3000両だったものが、札差への貸付だけで5万5000両以上となり、順調に拡大しました。以後、武家への貸し渋りは起きていません。

富の再分配

従来の解釈では、棄捐令は困窮した武家を救済するための苦肉の策と位置付けられてきました。しかし、歴史学者の山室恭子は、幕府も武家も商人にも利益をもたらす政策だったと述べています。

天保の無利子年賦返済令の際、当時の勘定奉行は、「延享3年から寛政9年までは52年、寛政9年から今年までは47年になる。およそ50年に一度、借金を破棄しないと、世の中の金銀が流通しなくなる」と述べています。つまり、棄捐令などの債務免除令は、一時しのぎの政策ではなく、50年周期で商人への課税と認識されており、長期的な経済サイクルの中に位置づけられていたと考えられています。江戸の債務免除は、富の再分配システムの一環として機能し、武家も商人もその有効性を認識して、幕府の指示に従っていたのです。

天保の無利子年賦返済令

天保14年（1843年）にも、天保の改革の一環として「無利子年賦返済令」が発令されました。この時、改革を主導していた水野忠邦は失脚しており、老中の地位にはいませんでした。

同年12月14日、札差に対して発令された無利子年賦返済令は、札差が旗本・御家人に貸し付けた未返済の債権を全て無利子とし、元金の返済は原則として20年賦、ただし、知行高に比べて借財の多い者には、さらに軽減した償還措置をとるというものでした。

ただし、これと引き換えに、幕府が札差に貸し付けていた御下げ金も無利息とされました。

なお、この棄捐令を根拠として、明治新政府は廃藩置県時に、それ以前の諸藩の債務を全て無効としました。

発布時の状況

寛政の改革後、札差は一時的に勢いを落としましたが、時が経つにつれて旗本・御家人の借金は再び増加し、文化・文政時代（1804-1829年）には再び繁栄し、旗本・御家人の生活は再び困窮しました。

このため、無利子年賦返済令が出される前に、天保13年（1842年）8月3日には、猿屋町会所から旗本・御家人に貸し付けていた金を債務免除とし、翌年6月1日には、旗本・御家人に対する貸付金や拝借金などの公金の債務免除を行いました。

無利子年賦返済令の発布後

この法令の発布後、当時の札差91軒のうち、半数以上にあたる49軒が店を閉鎖し、返済金を受け取るだけで、新たな貸付はしないという立場に変わりました。

これに対して、幕府は札差に2万両の資金を貸し付け（6年賦、年利5%）、当時の有力な札差4人に仲間内への融資を促しました。さらに、勘定所御用達、町方御用達の15人の商人に対して、新規に札差を開業するよう命じました。

しかし、業務が複雑であることや、開店に適した敷地がないなどの理由で、金1万両を札差助成料として差し出すだけで、15人のうち10人がこの命令を拒否しました。

なお、閉店を宣言した49軒の札差のうち38軒は、幕府や御用達からの出資、有力な同業者の支援などを受けて、再開店しました。

文久の札差仕法改革

文久2年（1862年）冬、天保の無利子年賦返済令から20年が経過した頃、幕府は3度目の札差仕法改革を行いました。

天保の無利子年賦返済令の発令後も増大し続けてきた未償還の債務を、年利10%から7%に引き下げ、返済は金額に応じて10年・20年と長期年賦にするという内容でした。これを、安利・年賦済仕法（やすりねんぷずみしほう）と呼びます。

この法令が発布された時、札差は特に行動を起こしていません。これは、以前の2回の棄捐令ほど厳しい内容ではなかったことや、この法令を適用した場合、主な債務者である旗本・御家人の負担がかえって増加する場合もあったからです。

棄捐令