額田女王

井上靖著『額田女王』詳細解説

井上靖の歴史小説『額田女王』は、1968年から1969年にかけて『サンデー毎日』に連載され、1969年12月に単行本として刊行されました。この小説は、飛鳥時代から奈良時代にかけての激動期を生きた、宮廷歌人・額田女王の生涯を、作者独自の視点から描いたものです。

物語の背景

物語は、645年の乙巳の変（大化の改新）後の動乱期を舞台としています。額田女王は、天智天皇（中大兄皇子）と天武天皇（大海人皇子）という二人の天皇から愛され、斉明天皇などの女帝にも仕えた、采女（うねめ）的な存在の歌人として描かれています。

乙巳の変後、蝦夷征伐や朝鮮半島への出兵（白村江の戦い）、壬申の乱など、戦乱が続く時代の中、額田女王は天皇に近侍し、朝廷に仕えました。彼女が仕えた天皇は、孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇、大友皇子、天武天皇と、時代を代表する人物ばかりです。

宮の所在地も、飛鳥板蓋宮（皇極天皇）から始まり、難波長柄豊碕宮（孝徳天皇）、飛鳥板蓋宮、飛鳥川原宮、飛鳥岡本宮（斉明天皇）、筑紫朝倉宮（朝鮮半島出兵時）、近江大津宮（天智天皇）を経て、飛鳥浄御原宮（天武天皇）へと変遷しました。額田女王は、天皇の移動に伴い、飛鳥、難波、筑紫、近江と各地を転々としたのです。

作中に登場する歌

熟田津の歌

朝鮮半島への出兵のため、筑紫へ移動する途中、熟田津（現在の愛媛県松山市道後温泉付近）に停泊した際の歌です。

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎ出でな

この歌は、出航の時を待ち、月も潮も満ちた今こそ、船を漕ぎ出そう、という意味が込められています。

蒲生野の歌

蒲生野（現在の滋賀県琵琶湖東岸）での遊猟の際に詠まれた歌です。

額田女王の歌

茜さす　紫野行き　しめ野行き　野守は見ずや　君が袖振る

この歌は、紫野やしめ野を歩いた際、遠くにいる愛しい人が袖を振っているのを見た、という情景を詠んだものです。恋心を抱きつつも、人目を気にする心情が表現されています。

大海人皇子の歌

紫草（むらさき）の　にほへる妹を　憎くあらば　人妻ゆゑに　吾（われ）恋ひめやも

大海人皇子の歌は、額田女王が人妻であるにもかかわらず、彼女への抑えられない恋心を歌ったものです。

登場人物

朝廷関係者

額田女王: 本作の主人公。天智天皇と天武天皇に求愛され、孝徳天皇、皇極・斉明天皇に仕えた歌人。神の言葉を聞くことができる特殊な能力を持つとされる。653年には、大海人皇子との間に十市皇女を産んだとされます。
鏡女王: 額田女王の姉で、中大兄皇子の妃。
孝徳天皇（軽皇子）: 645年の乙巳の変後、即位。飛鳥から難波に遷都。
皇極・斉明天皇: 舒明天皇の皇后。皇極天皇として即位後、孝徳天皇に譲位。その後、斉明天皇として再び即位。天智天皇・天武天皇の母。
天智天皇（中大兄皇子）: 乙巳の変後、皇太子となり、政治改革を主導。
天武天皇（大海人皇子）: 天智天皇を補佐。
中臣鎌足: 天智天皇を補佐した重臣。
大友皇子: 天智天皇の子で、十市皇女の夫。
古人大兄皇子: 乙巳の変後、皇太子の地位を退いた人物。
蘇我倉山田石川麻呂: 左大臣。中大兄皇子の暗殺計画の密告により自害。
山背大兄王: 蘇我入鹿により葬られた人物。
巨勢徳多: 孝徳天皇の難波朝廷の左大臣。
大伴長徳: 孝徳天皇の難波朝廷の右大臣。
間人皇女: 孝徳天皇の妃。中大兄皇子の妹。
有間皇子: 孝徳天皇と小足媛の子。謀反の疑いで処刑された。
建皇子: 中大兄皇子と蘇我造媛の子。斉明天皇に溺愛されたが夭逝。
持統天皇: 鸕野讃良(うののさらら)皇女。天智天皇の娘。天武天皇の妃。
葛野王: 大友皇子と十市皇女の子。
高市皇子: 大海人皇子の子。十市皇女への想いを抱く。

遣唐使

吉士長丹: 653年の遣唐使の大使。
高田根麻呂: 653年の遣唐使で遭難。
高向玄理: 654年の遣唐使の押使。
沙門智達: 唐への渡航を試みるが失敗。
阿曇連頬垂: 百済から帰国し、ラクダなどを連れ帰った人物。
坂合部磐鍬: 659年の遣唐使の大使だが、殺害される。
津守吉祥: 659年の遣唐使の副使。
河内直鯨: 唐へ派遣された使節。
黄書造本実: 唐の度量衡を朝廷に献上。

東北

阿倍比羅夫: 蝦夷征討を行った人物。

外国人

扶余豊璋: 百済の王子。人質として日本に滞在。
百済王善光: 百済王族。
吐火羅人: 日向に漂着した人物。
舎衛人: 吐火羅人の妻。
劉仁願: 唐の将軍。白村江の戦いの後に日本に使者を派遣。
劉徳高: 白村江の戦いの後に派遣された唐の使者。
能婁: 高句麗からの使者。
金東厳: 新羅からの使者。
久麻伎: 耽羅の王子。

壬申の乱関係者

小子部鉏鉤: 尾張国司。大海人皇子方。
村国男依: 大海人皇子方。
山部王: 近江方。殺害される。
中臣金: 近江方。処刑される。
蘇我赤兄: 近江方。流刑となる。
巨勢比等: 近江方。流刑となる。
蘇我果安: 近江方。
壱伎韓国: 近江方。
田辺小隅: 近江方。
秦友足: 近江方。
* 境部薬: 近江方。

テレビドラマ

1980年には、テレビ朝日系列で『額田女王』がテレビドラマ化されました。岩下志麻が額田女王を演じ、近藤正臣、松平健らが共演しています。脚本は中島丈博が担当しました。

まとめ

『額田女王』は、歴史的な事件や人物を背景に、一人の女性の視点から描かれた、重厚な歴史小説です。額田女王の歌や、彼女を取り巻く人々のドラマを通じて、古代日本の激動期を体感できる作品と言えるでしょう。

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