ニンマ派

ニンマ派：チベット仏教最古の源流

ニンマ派は、チベット仏教の四大宗派の中で最も古い宗派であり、「旧訳古派」とも呼ばれます。9世紀までの古代チベット時代に翻訳された古タントラ（古訳密教経典）を基盤としており、他の宗派と同様に、小乗・大乗・金剛乗の三乗を併修することを説いています。

教義の特徴

ニンマ派は、後期密教のタントラである「幻化網タントラ」と密接な関係にある「秘密蔵タントラ」を重要な経典としています。特に、「始原清浄」と「自然成就」を説く「ゾクチェン」（大究竟）を最奥義としており、その密教の教義や大成就法の分類方法は、新訳の宗派とは異なります。

歴史

起源

760年前後、チベットでは仏教と伝統宗教であるボン教との対立が表面化しつつありました。当時のチベット王ティソン・デツェンは仏教に帰依しており、インドからパドマサンバヴァとナーランダ僧院の僧シャーンタラクシタを招聘しました。

彼は、仏教の聖典をチベット語に翻訳するよう依頼し、パドマサンバヴァ、シャーンタラクシタ、そして108人の翻訳家やパドマサンバヴァの直弟子25人がこの巨大な翻訳プロジェクトに長年を費やしました。この事業が、後のチベット仏教に大きな影響を与えることになります。

パドマサンバヴァは主にタントラ（密教経典）の翻訳を監督し、シャーンタラクシタはスートラ（顕教の経典）を担当しました。また、二人は協力してサムイェー寺の建設にあたり、767年に建設を開始、771年に落慶しました。サムイェー寺はその後、チベットの聖典翻訳の拠点として重要な役割を果たしました。

この時、僧に7つの位階が初めて制定されました。また、中国人僧の摩訶衍を宗論の末にチベットから追放し、禅宗を異端とみなし、インド仏教を正統と定めました。これらの活動が基礎となり、チベットに無上瑜伽タントラを基にした仏教が確立したのです。

故ドゥジョム・リンポチェの教えによると、パドマサンバヴァが伝えたインド密教の修法は、「ゾクチェン」、「秘密蔵タントラ」、「八大ヘールカ」、「前行」（四加行とも表記）などが主なものでした。

発展

840年代頃、ランタルマ王の時代にボン教徒と仏教徒の対立から混乱が起こり、吐蕃王朝が滅亡。王家の保護を失った仏教は一時衰退したかに見えましたが、仏教徒となっていた有力氏族の家系に受け継がれました。

彼らは在家の密教行者集団を形成し、中央アジアや中国からも学僧を招き続け、古タントラ文献の翻訳活動を継続しました。これらの古タントラが、『ニンマ・カマ』とも呼ばれる文献群であり、後に発展するニンマ派の教義の典拠となりました。

11世紀に入ると、西チベットのグゲ王朝の庇護下で訳経官リンチェンサンポが翻訳活動を行い、インドの学僧アティーシャによってカダム派の戒律復興運動が起こりました。また、インドで発展した「ヘーヴァジュラ」や「チャクラサンヴァラ」などの新しいタントラがチベットに導入され、サキャ派、カギュ派などの新訳派（サルマパ）が成立しました。

そのため、古代王朝の家臣の家系で受け継がれていた古タントラの伝統に従う仏教徒が、このとき初めて旧訳古派（ンガギュル・ニンマパ）と呼ばれるようになりました。この時点では、ニンマ派という宗派組織が確立していたわけではなく、吐蕃時代の仏教の流れを受け継ぐ様々な流派の総称でした。

これ以降、パドマサンバヴァの教えを伝える旧訳経典類に基づく『ニンマ・カマ』の教えと、その25人の高弟らによって埋蔵されたと伝えられる教義の『テルマ』を発掘する埋蔵経発掘者（テルトン）たちによって、新訳派の影響も受けながら教義は継続的に発展していきました。

12世紀には、八大ヘールカの成就法の集大成「カギェ・デシェ・ドゥーパ」など多くのテルマを発掘したンガダク・ニャンレル・ニマ・ウーセルが活躍したほか、大学者ロンソム・チューキ・サンポがニンマ派の教義を体系化しようと試みました。また、カム地方のデルゲにカトク寺が建立されました。

13世紀には、グル・リンポチェとその八変化を主尊とした教義体系「ラマ・サンドゥ」を発掘したグル・チョーキ・ワンジュクが活躍し、現在まで見られるようなニンマ派の儀礼様式を確立しました。女性のテルトン、チョモ・メンモも活躍しました。

14世紀には、海外で『チベット死者の書』として知られる「パルト・トゥ・ドル」を含む教義体系「シト・ゴンパ・ランドル」を発掘したカルマ・リンパのほか、「ラマ・ゴンドゥ」の体系を発掘したサンギェ・リンパ、ニンマ派とボン教両方の教義を発掘したドルジェリンパ、北流埋蔵教説の伝統の創始者リクジン・ゴデムチェンらが活躍しました。また、ロンチェン・ラプジャムパは、それまで統一されていなかったニンマ派の教義を最奥義ゾクチェンを主軸にして理論体系にまとめあげました。

15世紀にはリンチェンリンパ、ラトナリンパが活動し、ラトナリンパは『古タントラ集成』を収集しました。

16世紀にはテルトンであるペマワンゲルがエワムチョカル寺を建立しています。

僧院化と教派組織

17世紀半ばには、ダライ・ラマ5世がモンゴルのグシ・ハン王朝の軍事力を背景に覇権を握り、ガンデンポタン政権を樹立し、ゲルク派僧院の階層型組織を基軸に行政システムの構築を進めました。

ダライ・ラマ5世はニンマ派の旧家の出身で、本人もニンマ派の教義体系「サンワ・ギャチェン」を著す成就者でもありました。そのため、ゲルク派からの攻撃によって衰退していたニンマ派を手厚く保護し、ドルジェタク寺、ミンドルリン寺、ゾクチェン寺など大寺院の建設を全面的に支援しました。

これにより、それまで在家の密教行者中心であったニンマ派に組織立った出家者集団が加わり、一定の政治的影響力も持ち始めました。このことがゲルク派からの大きな反発を招きました。

ミンドルリン寺を建立したテルダク・リンパは、弟のロチェン・ダルマシュリーとともに文献の収集と校訂事業を行い、500巻にも及んだといわれる金字経典にまとめ保存しました。その中でも、ラトナ・リンパの業績を基にして『古タントラ集成』『ニンマ・カマ』とその歴代の学者たちによる重要論書を集めた『ニンマ・カマ集』の基礎作業を行いました。また、ニンマ派だけに限らず成就法を集めた『ドゥプタプ・ドジョ・ブムサン』は、19世紀に編纂されたテルマ集成『リンチェン・テルズ』の原型となりました。

ダライ・ラマ5世の師となったテルダク・リンパは、政治面においても相談役となりました。これ以来、ミンドルリン寺はニンマ派の総本山と定められ、代々のミンドルリン寺の座主が中央チベット政府に対するニンマ派の総代を勤めることとなり、教派組織が成立しました。

カム地方では、ラサ政府とは政治的立場を異にするデルゲ王家が施主となり、ペユル寺が建立されました。また、ドゥドゥル・ドルジェやロンセル・ニンポらがテルマを感得してカトク寺の伝統の再興に尽力しました。

1717年、モンゴルのジュンガル部が侵略してきた際にはドルジェタク寺、ミンドゥルリン寺が灰燼に帰しています。

1735年にシェチェン寺が建立されました。

18世紀後半にはジグメ・リンパが活躍しました。彼は、ロンチェン・ラプジャムパから霊的に「ロンチェン・ニンティク」の教えを感得したほか、ロンチェンパが『七蔵』で説いたニンマ派の教義体系を簡潔にまとめあげた『ヨンテンズ』などを著しました。「ロンチェン・ニンティク」の伝統はジグメ・リンパの二大弟子を通じ、パトゥル・ジグメ・チョウキ・ワンポなどに受け継がれ、デルゲ王家の保護を受けて東チベットを中心として大いに栄え、超宗派運動の原動力となりました。

超宗派運動

19世紀には、東チベットのカム地方デルゲ王国の庇護の下、宗派を超えて教義を学びあう超宗派運動（リメ運動）が展開し、ゲルク派からの攻撃に抵抗しました。ジャムヤン・キェンツェ・ワンポ、ジャムゴン・コントゥル・ロドゥ・タイェ、チョギュル・デチェン・リンパらが中心となり、散逸しかけていた新旧タントラに関する文献を収集し、『リンチェン・テルズ』などの大全集にまとめました。

また、ミパム・ジャムヤン・ギャツォは、ジャムヤン・キェンツェ・ワンポの指示によって、顕教、密教について超宗派的な視点に立った教科書を数多く著しました。これらの教科書はニンマ派のみならずサキャ派・カギュ派の学問寺でも教科書として採用されています。

現代

近現代のニンマ派の長は、チュン・リンポチェ、ドゥジョム・リンポチェ、ディンゴ・ケンツェ・リンポチェ、ペノル・リンポチェ、ミンリン・ティチェン・リンポチェ、トゥルシク・リンポチェなどを経て、現在はタクルン・ツェトゥル・リンポチェが務めています。

現在、ニンマ派六大寺院と呼ばれているのは、ゾクチェン寺、カトク寺、ペユル寺、シェチェン寺、ミンドルリン寺、ドルジェタク寺です。

これらの寺院は文化大革命で被害を受けましたが、再建が進められています。また、チベット本土ではカリスマを持つラマのもとに自然に集まってきてできたアチェン・ガル、ラルン・ガルなどの新しいニンマ派の寺も存在します。

ニンマ派の特徴

伝承

ニンマ派には密教に特有の伝承方法「瀉瓶」があり、開祖パドマサンバヴァの秘訣を伝えています。チベット動乱を契機として、1959年に亡命したドゥジョム・リンポチェによって伝統の維持とニンマ派の復興を目的として『瀉瓶』が実際に公開されました。

教法

ニンマ派の教法は、「カマ」（口頭伝承経典）、「テルマ」（埋蔵経典）、「タクナン」（清浄顕現）の三つに分類されます。しかし、これらの教えは他派にも見られます。ニンマ派の教法は、「古タントラ」、つまり古訳密教経典を伝承する流れにあるという点が重要です。

本尊

ニンマ派の修行の中心となるのは「秘密蔵タントラ」と、その主尊である「大幻化金剛」の教えに加えて、「ゾクチェン」の見解とその「グルヨーガ」です。その前段階として古タントラの「パルト・トゥ・ドル」の実践法やイダム（守護尊）として「八大ヘールカ」の体系の修法があります。

それらを完成に導くために「前行」（ンゴンドゥ）を基礎として、四大宗派共通の日課経典でもある「聖妙吉祥真実名義経」の読誦と、その経中の「大幻化頌」（秘密蔵タントラの要約）の理解に加えて、「グル」（導師、上師）、「デーヴァター」（守護尊、護法神）、「ダーキニー」（空行母、護法女神）の三本尊を祀る「三根本法」があります。

九乗

ニンマ派の教義体系には、パドマサンバヴァ以来の「九乗教判」があります。これは、顕教（声聞乗、縁覚乗、菩薩乗）、外タントラ（クリヤー乗、ウパ乗、ヨーガ乗）、内タントラ（マハーヨーガ乗、アヌヨーガ乗、アティヨーガ乗）から構成されます。九乗の頂点に位置するアティヨーガは、ゾクチェンとも呼ばれます。

テルマとテルトン

テルマ（埋蔵経典）はニンマ派を特徴づける重要なものです。ニンマ派の教義の伝達は、師から弟子へと受け継がれる「師資相承」のカマと、発見されたテルマから新たに得られるものの2種類からなります。

ニンマ派の教義によれば、祖師パドマサンバヴァは9世紀、後のチベット人のためにニンマ派の教えの真髄をさまざまな形で埋蔵したとされています。この埋蔵されたものがテルマであり、それを発掘する重要な役割と才能を与えられた僧や化身ラマがテルトンです。

テルマはテルトン（埋蔵仏典発掘者）が探してきた古代の経典や遺物、あるいは啓示のことです。ニンマ派の伝承によれば、パドマサンバヴァとその主要な弟子たちは、ラン・ダルマ王の仏教弾圧の時代、仏教を守るため、数百もの聖典、仏具をチベット高原各地に秘密裏に隠したとされています。そして、人智の進化に応じてその時代にあったテルマが発見されると考えられています。テルトンはパドマサンバヴァの25人の主要な弟子の化身ラマであることが多いとされます。

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