アッピウス・クラウディウス・カエクス

紀元前340年頃に生まれ、紀元前273年に没したアッピウス・クラウディウス・カエクスは、共和政ローマ期に活躍した政治家であり軍人です。名門クラウディウス氏族のパトリキ（貴族）に属し、その異名である「カエクス」は「盲目」を意味します。彼はローマ史上でも特に重要な人物の一人として知られ、主要な功績としてアッピア街道とアッピア水道という壮大な公共事業の建設が挙げられます。

一族と出自

アッピウスは、紀元前349年に執政官を務めたアッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシスの孫にあたります。クラウディウス氏族は、その祖であるアッピウス・クラウディウス・サビヌス・インレギッレンシスがローマに移住して以来、弁舌に優れ、伝統的にプレブス（平民）に対して批判的な立場をとることが多かったと伝えられています。アッピウス自身にも、こうした氏族の特質が見受けられます。彼にはアッピウス・クラウディウス・カウデクスという弟がいたとする記録もありますが、これは他の記述との整合性に疑問が呈されています。また、後に皇帝となるティベリウスの先祖が彼の子孫であるという説も存在しますが、こちらも歴史家の間で見解が分かれています。

ケンソルとしての活動と改革

アッピウスの経歴の中でも特筆すべきは、第二次サムニウム戦争中の紀元前312年にガイウス・プラウティウス・ウェノックスと共に就任したケンソル（監察官）時代の業績です。彼は、従来の貴族中心の政治慣習に捉われず、下層階級からの支持を獲得するための革新的な政策を実行しました。具体的には、解放奴隷の息子にもローマ市民権を与え、彼らが元老院議員になる道を拓いたこと、そして土地を持たない無産市民をトリブス民会に登録し、投票権を与えたことが挙げられます。これらの措置は、当時の社会における下層階級の不満を緩和し、戦争遂行に必要な徴税や労役への協力を確保する上で有効であったと考えられています。

しかし、これらの改革の背景には、アッピウスが自身の政治的な影響力を拡大し、氏族の伝統的な立場であったプレブスとの対立において自らの支持基盤を強化しようとする狙いがあったとの見方もあります。実際に、彼は全市民に対して、希望するトリブスやケントゥリアの階級に登録することを許可したとされています。この政策は、既存の社会秩序を揺るがすものとして、一般市民だけでなくパトリキからも強い反感を買いました。後に、紀元前304年にケンソルとなったクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌスは、アッピウスによって市民権を得た無産市民をローマ市内の4つの都市トリブスに限定して登録し直すことで、この問題に対処しました。この措置は人々の感謝を集め、ファビウスには「マクシムス」（偉大な者）の尊称が贈られることになります。アッピウスの改革は、ローマ市外の農村部に居住し、次第に資産を蓄え始めていた解放奴隷を取り込むことで、トリブス民会における自身の勢力を増すことを意図していた可能性が高いですが、彼らが軍務やより重要なケントゥリア民会で地位を得るには至らなかったと考えられています。

インフラ建設

ケンソル在任中のアッピウスの最大の功績は、後世にまで語り継がれる壮大な公共事業です。彼は、ローマから南方のカプアまでを結ぶアッピア街道（Via Appia）を敷設しました。この街道は「街道の女王」と称され、その後のローマ帝国の道路網の模範となりました。さらに、彼はローマで最初の本格的な上水道であるアッピア水道（Aqua Appia）も建設しています。これらの事業により、アッピウスは「インフラの父」とも称されるローマ人の中でも、特に傑出した人物として評価されています。歴史家ティトゥス・リウィウスによれば、ケンソルとして元老院議員を選出した方法を巡って同僚のプラウティウスと対立し、プラウティウスが辞任した後もアッピウスは一人でこれらの建設事業を推し進めたとされています。

一方で、アッピウスの施策全てが円滑に進んだわけではありません。ユピテル神殿での儀式に不可欠な笛吹たちの特権を制限した際には、彼らの怒りを招き、ローマから集団で立ち去るというストライキに発展した事件も起こっています。

ケンソル任期の延長問題

従来の慣習では、ケンソルの任期は紀元前434年のアエミリウス法によって1年半に短縮されていました。しかし、アッピウスは自らの任期が過ぎても辞任しようとせず、同僚のプラウティウスが辞任した後もその地位に留まり続けました。彼は、アエミリウス法はその制定当時のケンソルにのみ適用されるものであり、それ以降のケンソルや自分には無効であるという強引な論理を展開しました。これに対し、護民官プブリウス・センプロニウスはアッピウスの任期延長に強く反対し、過去の例を挙げて説得を試みましたが、聞き入れられませんでした。センプロニウスはついにアッピウスの逮捕を命じますが、10人いた護民官のうち3人がこれに反対したため、逮捕は実行されず、アッピウスは市民の反感を買いながらもケンソル職を務め続けました。

その他の公職と軍事活動

ケンソル任期を終えた後も、アッピウスは様々な公職を歴任しました。紀元前307年には執政官に当選し、同僚のウォルムニウス・ウィオレンスが外敵への対処にあたる間、彼は主に内政を担当しました。

紀元前300年には、護民官オグルニウス兄弟が提案した、それまでパトリキが独占していた神官やアウグル（鳥卜官）といった宗教職を増員し、プレブスにも開放するという「オグルニウス法」に強く反対しました。彼はこの法案の支持者であるプレブス出身のデキウス・ムス（第二次ラティウム戦争の英雄の子）と激しい論争を繰り広げましたが、最終的にこの法案は成立しました。

紀元前296年には再び執政官に選ばれました。この時、前年の執政官であったクィントゥス・ファビウス・マクシムスが続けて翌年の執政官に当選していましたが、アッピウスは、執政官の一人はプレブスから選ばれるべきだとするリキニウス・セクスティウス法を無視して自分も当選させるよう圧力をかけました。しかし、ファビウスが自ら道を譲ったため、アッピウスはウォルムニウス・ウィオレンスと共に執政官を務めることになりました。この年は、サムニウム人の扇動によりエトルリアに反ローマ勢力が結集しており、アッピウスはこれに対処することとなります。ウォルムニウスがサムニウム戦線から援軍として駆けつけますが、アッピウスはこれを斥けようとしました。しかし、両軍の将校や兵士たちの仲裁により、最終的には共同でエトルリア軍を撃破しました。リウィウスによれば、アッピウスはこの戦いで戦いの女神ベローナに神殿の奉献を誓い、自ら兵士たちを鼓舞した結果、ローマ軍は大勝を収めたといいます。

翌紀元前295年にはプラエトル（法務官）として再びエトルリア戦線を担当しました。彼は二重の柵と堀で陣営を堅固にしましたが、到着した執政官ファビウス・マクシムスはこれを見て、兵士たちが更に木材を集めているのを咎め、柵を引き抜くよう命じました。この命令にアッピウスと兵士たちは恐れを抱いたといいます。アッピウスは間もなくローマに召還され、陣営を撤去し機動性を高めたファビウス軍は、同僚のデキウス・ムス（子）と共にセンティヌムの戦いに向かいます。この戦いは苦戦となりましたが、父と同様に自らを犠牲にしたデキウス・ムスの自己犠牲によってローマは勝利を収めました。戦後、デキウスの残存部隊を率いたアッピウスは、プロコンスルとなっていたかつての同僚ウォルムニウスと共に、カンパニア北部を荒らすサムニウム軍に対処し、激戦の末、共同でこれを撃破するという勝利を収めました。

アッピウスの経歴は極めて多岐にわたり、後の碑文によれば、ケンソル1回、執政官2回、独裁官1回、インテルレクス（共和政期に執政官不在時に臨時に政務を代行する役職）3回、プラエトル2回、アエディリス（道路・市場・公共建築などを管理）2回、クァエストル（財務官）1回、トリブヌス・ミリトゥム（高級士官）3回を歴任した堂々たるものでした。しかし、彼はインテルレクスとして執政官選挙を主宰した際には、プレブスが執政官に就任することに強く反対するなど、貴族としての保守的な側面も持ち合わせていました。

盲目となった理由と晩年のピュロス戦争

アッピウスには晩年、「カエクス」（盲目）という二つ名がつけられました。その原因については複数の説があります。長年の激務によるものとする説に加え、宗教的な理由によるものとする説も存在します。リウィウスは、ケンソル時代にヘラクレスの祭祀を代々司ってきたポティティウス氏族から国家の奴隷に引き継がせたことに対し、神の怒りを受けてポティティウス氏族は滅亡し、アッピウスも盲目になったと記しています。ディオドロスはより厳しい見方を示しており、アッピウスが自身の野心のために国家予算をインフラ整備に費やし、解放奴隷を元老院に入れたことで元老院の反感を買ったため、それをかわすために盲目のふりをして自宅に引きこもったと述べています。

紀元前280年にエペイロス王ピュロスがイタリアに侵攻して始まったピュロス戦争において、ローマ軍はヘラクレアやアスクルムで敗北を喫しますが、ピュロス側にも大きな犠牲を強いました。ピュロスはローマの兵士たちが退却せずに勇敢に戦う姿を見て、和平交渉のために副官シネアスをローマに派遣しました。元老院では和平について議論が交わされますが、この時、眼病のためにしばらく静養していたアッピウスが議場に現れました。彼は、いかなる困難に直面してもローマは諦めるべきではない、講和を結ぶのは勝利した後であると力強く演説しました。この演説は元老院の決定に影響を与え、ローマは戦争の継続を選びました。

ローマはこの後も粘り強く戦いを続け、紀元前275年のベネウェントゥムの戦いではピュロスと引き分けに持ち込み、最終的に彼をイタリア半島から撤退させることに成功しました。皮肉なことに、このベネウェントゥムの戦いでローマ軍を指揮したのは、アッピウスがその執政官就任に猛反対していたプレブス出身の英雄、マニウス・クリウス・デンタトゥスでした。アッピウスのピュロス戦争における演説は、「ローマは敗北時には講和せず、勝利によってのみ講和を結ぶ」というその後のローマの伝統の源流になったとも言われますが、その信憑性には疑問も呈されています。

アッピウス・クラウディウス・カエクスは、革新的な改革者としての一面と、貴族としての保守的な側面、そして偉大なインフラ建設者として、また激動の時代を生きた政治家・軍人として、ローマ史にその名を刻んでいます。

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