刑法学

刑法学とは

刑法学は、刑法を研究対象とする法学の一分野です。現代においては、法典の解釈や判例の射程をめぐり議論する法解釈学が中心となっています。しかし、歴史的には刑法が何のために存在するのか、あるいは存在すべきなのかという哲学的な問いも重要な研究対象でした。そのため、法学の中でも特に哲学との親和性が高い分野と言えるでしょう。

古典学派と近代学派

19世紀末のドイツを中心に、刑法思想を巡る大きな論争が起こり、各国の学会は二分されました。この論争から生まれたのが、古典学派（旧派）と近代学派（新派）という二つの対立する学派です。今日の刑法理論は、この両者の思想から発展したものです。

古典学派（旧派）

古典学派は、18世紀末から19世紀初頭にかけて、ベッカリーアやフォイエルバッハらによって提唱されました。社会契約説やカントの思想を背景に、犯罪は社会や権利に対する侵害であり、法律であらかじめ定められた規則に従って処罰されるべきだと主張しました。また、宗教や王権が法の規定を超えて刑罰に介入することに反対しました。

前期古典学派

前期古典学派は、市民革命当時の理念である自由かつ合理的な理性を持つ人間観を前提としていました。彼らは、犯罪によって得られる利益よりも処罰による損失の方が大きければ、人は合理的に判断して犯罪を予防できるという心理強制による一般予防を期待しました。これは、特にフォイエルバッハによって体系化されました。

後期古典学派

19世紀中頃になると、市民社会の変質から個人の理性だけでは犯罪を抑制することが難しいと認識されるようになりました。しかし、古典学派においても国家の指導原理が意識されるようになり、ヘーゲルの影響を受けたビンディングらが、国家は道義的義務に違反したものに刑罰を科すことができると主張しました。また、犯罪理論の客観化を進めました。日本では、宮城浩蔵がフランス新古典派の立場をとり、大場茂馬によってドイツ古典派が紹介されました。その後、瀧川幸辰や小野清一郎らがその地位を受け継ぎ、法益侵害説をめぐり論争しました。現在では、平野龍一らが前期古典派の立場、団藤重光らが後期古典派の立場を主張しています。

理論の概要

古典学派の理論は、以下のような特徴を持ちます。

刑罰権の主体は自由主義的法治国家である。
人間は自由意志を持つ理性的存在である（意思自由論）。
犯罪行為は自由意志の外部的実現手段である（犯罪現実主義）。
罰せられるのは、現実的な行為である（行為主義）。
犯罪の観念は、行為と結果を重視する（客観主義）。
刑法上の責任は、自由意志による反道義的行為への道義的非難である（意思責任・道義的責任）。
刑罰による一般予防が可能である（一般予防論）。
刑罰は道義的責任ある行為への応報である（応報刑論）。
刑罰によって法秩序の維持が可能となる（法秩序維持論）。
保安処分は刑罰とは性質が異なる（二元論）。

近代学派（新派）

19世紀中期から後半にかけて、社会・経済の急激な変動により犯罪が増加しました。これに対し、理性的な人間像を前提とする古典学派への批判として、実証的な方法で犯罪を捉えようとする近代学派が登場しました。ロンブローゾは、人間の身体的特徴と犯罪を結びつけて生来的犯罪人説を唱え、犯罪の抑止には心理強制が期待できないと主張しました。

イタリア学派

ロンブローゾの理論は、フェリやガロファロらに引き継がれ、「イタリア学派」や「実証学派」として発展しました。この学派は、犯罪の原因を人類学的に（犯罪者の人間性そのもので区分する）探求しました。

ドイツ学派

一方、ドイツのリストは、生物学的視点に社会学的視点を加え、目的主義的な思想も取り入れて近代学派の理論を完成させました。彼は、刑法の応報刑化に反対し、法益保護と法秩序の維持を目的とし、社会を犯罪から防衛しつつ、犯罪者の再犯を予防することを重視しました。犯罪の原因を社会的要因と個人的要因に分けて考え、それぞれの対策を主張しました。

理論の概要

近代学派の理論は、以下のような特徴を持ちます。

刑罰権の主体は政策的任務を負った社会的法治国家である。
人間の自由意志を否定し、犯罪を行為者の素質と環境から生じる必然的な現象とする（意思決定論）。
犯罪行為は、犯罪者の反社会的な性格の表れである（犯罪徴表説）。
問題となるのは行為そのものではなく、行為者自身である（行為者主義）。
犯罪の観念は、行為者の反社会的な性格や動機から理解する（主観主義）。
刑法上の責任は、反社会的な危険性を持つ者が社会防衛のために不利益処分を甘受する立場にあると考える（社会的責任論）。
刑は応報ではなく、行為者の反社会的な性格を改善するための措置である（改善刑論・教育刑論）。
刑は、行為者の再犯予防を目的とする（特別予防論）。
刑によって、社会を犯罪から防衛できる（社会防衛論）。
保安処分は刑罰と性質が同じであり、代替可能である（一元論）。
犯罪は行為者の素質や生育環境によるところが大きい。

罪刑法定主義

罪刑法定主義とは、いかなる行為が犯罪として刑罰の対象となるかを事前に明確に定める原則です。これにより、国民の自由が不当に制約されるのを防ぎ、刑罰執行者の恣意的な判断を抑制します。また、国民の代表である国会が法律によって犯罪と刑罰を定めることで、民主主義的な正当性を確保します。日本国憲法第31条が罪刑法定主義の根拠とされています。

日本における罪刑法定主義

日本では、旧刑法では罪刑法定主義の規定がありましたが、現行刑法では削除されています。これは、当時の大日本帝国憲法にも同様の規定があったため重複を避けたとされています。しかし、当時の政府が裁判官の裁量権を拡大し、国家体制に対する犯罪に関しては罪刑法定主義の例外を設けようとしたのではないかという疑念も残っています。治安維持法や国家総動員法に見られた、抽象的な犯罪類型や白地刑罰法規などは、罪刑法定主義の形骸化を示す例と言えるでしょう。

刑法学上の重要な概念

刑法学には、以下のような重要な概念があります。

罪刑法定主義
構成要件
客観的構成要件
間接正犯
主観的構成要件
相当因果関係
違法性
行為無価値論
結果無価値論
違法性阻却事由
正当行為
正当防衛
緊急避難
責任主義
人格責任論
責任能力
故意
過失
新過失論
期待可能性
未遂
中止犯
共犯
共同正犯
共謀共同正犯
教唆犯
幇助
罪数

刑法総論と各論

刑法学は、大きく総論と各論に分けられます。

総論

総論では、犯罪と刑罰の関係を一般的・抽象的に研究します。犯罪の成立要件や類型に関する原則、刑罰の本質や種類、適用について扱います。未遂、心神耗弱、共犯などの概念も総論で扱われます。

各論

各論では、窃盗罪や殺人罪など、個々の犯罪と刑罰を具体的・個別的に研究します。各犯罪の成立要件や刑罰について、詳細に検討します。

刑法総論（犯罪論）の概要

刑法総論の中心は犯罪論です。犯罪の成立・不成立を判定するための一般的な基準や理論を扱います。犯罪の成立には、(1)構成要件該当性、(2)違法性、(3)責任の要件が満たされることが必要です。

構成要件該当性

構成要件該当性とは、ある事実・行為が犯罪を定めた法条の要件にあてはまることをいいます。例えば、殺人罪の構成要件は「人を殺した」ことです。構成要件は詳細に分析され、体系化されています。

違法性の判断

構成要件該当性があると判定されたら、次に違法性を検討します。違法性とは、法益侵害またはその危険を指します。構成要件に該当する行為は違法と推定されますが、正当防衛などの違法性阻却事由が存在すれば、違法性は否定されます。

違法性阻却事由

違法性阻却事由には、以下のようなものがあります。

緊急行為として
正当防衛
緊急避難
正当行為として
法令行為
正当業務行為
一般的正当行為
被害者の承諾
推定的承諾
安楽死・尊厳死
自救行為
義務の衝突
超法規的違法性阻却事由

責任の判断

違法性があると判定されたら、次に責任を検討します。責任とは、行為者を法的に非難できることです。構成要件該当性があれば、責任が推定されますが、責任能力がない場合など、責任を問えない特殊事情（責任阻却事由）が存在すれば、責任は否定されます。

責任の要素

責任の有無を判断する要素は以下のとおりです。

責任能力
違法性の意識の可能性
適法行為の期待可能性
責任故意（争いあり）
責任過失（争いあり）

構成要件の修正形式

未遂罪、中止犯、予備罪は、構成要件の修正形式として扱われます。また、共同正犯、教唆犯、従犯などの共犯も、構成要件の修正形式と位置づけられます。

共犯

共同正犯：複数人で共同して犯罪を実行すること。
共謀共同正犯：謀議に加わることで正犯としての責任を負うこと。
教唆犯：他人を唆して犯罪を実行させること。
従犯：正犯者の犯罪実行を助けること。

罪数

罪数とは、成立する犯罪の数を数えることです。罪数処理には、本来的一罪、科刑上一罪、併合罪があります。

本来的一罪

本来的一罪とは、一つの構成要件によって評価される事実です。例えば、人を刺殺した場合、器物損壊罪が成立するようにも見えますが、殺人に伴うものとして吸収されます。

科刑上一罪

科刑上一罪には、観念的競合と牽連犯があります。観念的競合とは、一つの行為で複数の犯罪が成立する場合です。牽連犯とは、ある犯罪が別の犯罪の手段や結果となる場合です。

併合罪

併合罪とは、確定判決を受けていない複数の犯罪がある場合です。併合罪の場合、刑は加重されます。

刑法各論の概要

刑法各論では、個々の犯罪類型をその保護法益に応じて分類します。

個人的法益に対する罪

生命・身体に対する罪
暴行罪
傷害罪
過失致死傷罪
殺人罪
自由及び私生活の平穏に対する罪
脅迫罪
強要罪
強制性交等罪
住居侵入罪
名誉・信頼に対する罪
名誉毀損罪
業務妨害罪
財産に対する罪
窃盗罪
詐欺罪
恐喝罪
強盗罪
強盗致死傷罪

社会的法益に対する罪

公衆の安全に対する罪
騒乱罪
現住建造物等放火罪
偽造の罪
通貨偽造罪
有価証券偽造罪
文書偽造罪
印章偽造罪
風俗秩序に対する罪
公然わいせつ罪
わいせつ物頒布罪
重婚罪
賭博罪

国家的な法益に対する罪

内乱罪
公務執行妨害罪
犯人隠匿罪
証拠隠滅罪
偽証罪
* 収賄罪

この解説は、刑法学の基本的な概念と構造を理解する上での一助となれば幸いです。

もう一度検索